蛍光灯が宇宙になったなら

底辺雑記ブログ

19歳、狭間と違和

私は先月19歳になった。時の流れというものは早いもので、中学生の頃は早く大人になりたいなんて思っていたのに、いつの間にか大人になりたくないと思ってしまっている。


大人になれば自由が待っているとばかり思っていたのに、自由になれば希望があるとばかり思っていたのに、待ち受けていたのは変わらぬ絶望だった。


19歳。


世間的に見ればまだまだ若い方で、私の年齢や性質を知らない人に19歳ですなんて宣告したら、若いね〜とか、希望があっていいね〜なんて言われてしまうだろうが、私自身もう19歳という年齢になってしまったことに絶望を感じている。

実際のところ、希望なんて無いに等しい。19歳という長いようで短い短いようで長い年月の中なにも積み上げてこなかったのだから無いも当然だ。自然の摂理だ。


絶望を感じているのは年齢のせいでも、加速する世界のせいでもない。私自身のせいだ。19歳という年齢ではなく19歳という年齢に見合っていない内面と精神性に、私は絶望している。


けれど敢えて言おう。


年齢のせいにさせてくれと。


私がこうなのは、加速する性質を持った世界のせいだと。


19歳という年齢は何もなし得なかった私にとってあまりに残酷であることに気づいてしまった。自身を少女と形容するには私は歳をとってしまったし、大人と形容するには内面と精神性は幼く、成長しない子供のまま。


セーラー服もブレザーも強制的に脱ぎ捨てられてしまい、私は中高生という称号に甘えることが出来なくなってしまった。


否、私自身セーラー服もブレザーも早く脱ぎ捨てて自由になりたかった。脱ぎ捨てることを望んでいたのは紛れもなく私自身なのだ。けれどそれが今では脱ぎ捨てられてしまった、なんて形容して、縋っている。


制服を脱ぎ捨てても、私は大人になれない。顔に化粧品を塗りたくって大人の世界に飛び込んだつもりでいても、結果はほとんど変わらない。かといって子供のまま甘えることもできない。


早く現状から逃げ出したいなんてそんな夢見心地を思ってばかりで、実際は早く現状から逃げ出したい私に囚われてしまっている。


内面と精神性は変わらぬばかりで、感情だけが先走って大人になった感覚でいる。


他の人間が一生懸命何かに熱中して躍起になって活気に溢れているのを見て私は取り残された気分になるけれど、それを見ても私はずっと取り残されたままなのだろうと思う。


活気に満ち溢れている人間の横で、ボーっとくだらない感情を心の中で消化しながら日々を何となく生きている私を想像すると、思わず笑ってしまいたくなるがきっと笑っている場合ではない。


私は何もなし得ないまま無様に生きていくのだろうと思うとそんな自分自身に嫌悪するけれど、きっと私は自分自身に嫌悪したまま無様に生きていくのだろう。


変わりたいなんて思いつつ、変わらないままの自分自身がそこにいるのだろう。


私はまだまだ子供だ。


早く本当に大人になれる日が来るといいな。