はぐれ者の苦い青春の中身はライトノベルと漫画で出来ていた
学校とは、明るく活発で能力のある人間だけがヒエラルキーのトップを占める、哀しき鳥かごである。
ガンジーが非暴力を掲げたインドの国では未だにカースト制度が蔓延しているが、制度化・表面化していないだけで日本の学校はカーストに囚われているのではないだろうか。
生徒だけではなく、教師も、だ。
時には弱者の味方をする聖母マリアの如き教師もいるが、殆どがカースト上位層に媚びを売られ、その媚びに媚びる教師ばかりだ。
カーストからはみ出た者は、教室という狭い箱の隅で机に伏せて寝たフリをして時を過ごすか、絵を描いたり読書をしたりして誤魔化すか、のどちらかを行う運命である。
甘く青い春など、訪れないのだ。
私の苦い青い春は、ライトノベルと漫画だった。
学校では読まなかった。何となく気が引けたし、漫画の持ち込みは禁止だったからだ。
祖父に連れて行ってもらった書店で、私は「さよならピアノソナタ」を手に取った。
「さよならピアノソナタ」音楽評論家の父を持つ男子高校生と突如失踪した天才少女ピアニストが出会い青春する物語である。
書いていて気づいたが、このライトノベルにはロックやクラシックなどの音楽知識が度々登場する。当時中学生で無知な私の頭では、文中に出てくるフーガニ短調だのヘイ・ジュードだのレッド・ツェッペリンだのといったカタカナは微塵も理解できなかった。
しかし、ジャンルは違えど「さよならピアノソナタ」が現在の私の音楽観や感性を創っているのだと思うと、苦いアオハルも悪くはないのかもしれない。
因みに文中に出てきたカタカナは、今でも分からない。人間とはそういうものなのだろう。
次に「神様のメモ帳」を手に取った。
普通の男子高校生藤島鳴海が、ニート探偵アリスを筆頭に、ヒモ、学生ニートのミリヲタ、ヤンキーのギャンブラー、不良チームの組長など色濃い登場人物と一緒に事件に巻き込まれていく物語である。
登場人物はThe社会のはぐれ者といったふうで、教室のはぐれ者だった私と重ねてみていた節がある。
彼ら彼女らはドラッグ、暴力団などヤバいモノに巻き込まれ、私はその部分を読む度に頭が痛くなったものだ。
いくら創造物の中といえど、こんな社会があるのかと、理解ができず困惑し、それでもページを何度もめくり読みふけっていた。
今なら理解ができるかもしれない、と思ってみたりもしよう。
休日の昼間、兄の部屋で漫画を読んだ。
狭い本棚に無造作に置かれた漫画を取っては、体育座りで無我夢中になって凝視していた。
スポ根、ファンタジーなど、ジャンルは少年漫画ものがほとんどだったが、特に心惹かれたのは不良漫画であった。
つまらない人生を送っていた私は、社会のはぐれ者になりながらも好き勝手に生きて暴れ回る主人公達に憧れたものだ。
そんなことをボヤきながら、私は今もつまらない人生を送っている訳だがきっと人生とはそういうものなのだろう。
暗い己を閉じ込めた自室と太陽光に照らされた兄の部屋で読んだライトノベルと漫画が、今の私を創ったことは確かである。