蛍光灯が宇宙になったなら

底辺雑記ブログ

フィクション

「現状は最悪だ。精神的にも社会的にも僕の身は危うく、体力も雀の涙ほどしか無い。これは非常にまずい状態だ。ところで君は死について考えたことはあるかい?僕はある。とは言ってもこの世から脱した人達―僕は自殺した人のことを決して''逃げた"なんて形容することは無い。何故なら逃げたなんて表現を使ってしまっては、この世に留まり彼らが恐らく脱することの原因の一つになったであろう愚かな根性論者が彼らを負かしたと錯覚させてしまう恐れがあるからね―を羨ましがったり死後の世界について空想したりと、浅いことしか考えたことはないのだけれど……。そうか、君も人間だから一度は考えたことがあるよね。すまない、僕は君を見くびりすぎていたよ。あまりにも僕と君は異なった環境にいるものだから、君はそういうことを考えたことがないとばかり思っていた。ハハハ、俺も少しは考えたことがあるって?それは本当に申し訳ない。ほら、君も飲んだらどうだい。今日は僕の奢りだからね。普段飲めない高級な酒でも頼んだらいい。…………普通のビールでいいのかい?遠慮しないで好きなものを注文すればいい。……そうか、ならいいんだ。おっと、話が脱線しすぎてしまったね。そう、死についてだ。これは僕の独り言だと思って流してくれればいい。そして曖昧にでもいいから君の心の奥底に留めておいて欲しい」


その人は自分と同じビールを頼んで、事前に机に置かれていたお冷を口にした。彼の口にはそのお冷の温度は冷たすぎたらしく、目を瞑り、口をすぼませて顔を一瞬くしゃっとさせた。そして無味のコップの中の液体をじっくりと味わうように口周りの筋肉を動かし、喉仏が運動するのが見えた。彼は本当はビールなんか嫌いなはずなのに、何故かビールを頼んでいた。しかもジョッキだから全部飲むのは大変だ。彼はこういう性質なのだ。彼は彼自身のことを他人のことなど気にもしないで話す代わりに、その他の行動を他人に合わせてばかりいた。否、これは共有したかったのだろう。古来の友人と同じ酒を飲むことで、自分と彼自身の心情を、彼は一致させたかったのだ。



「死後について僕は考えてみたんだ。死後っていうのは誰にも分からない。どんなに学問に携わる人であろうと、死の先は不明瞭の道を辿る。死は僕ら人間、否、生命体に生まれたからには死は必然であるにも関わらず、その真相は分からない。不思議なものだね。だからこそ僕は怖いのだ。某宗教の信者たちは必ず楽園にいけると信じているみたいだけど、アレは盲信だ。必ずしもそうというわけじゃなく、アレはそうあって欲しいという願望なのだ。楽園に行きたいという欲望そのものなのだ」


彼は咳払いをして、持論を語っている最中に運ばれたビールジョッキを口元に持っていき、グイッと勢いをつけてジョッキの中のアルコールを流し込む動作を行った。同時に彼は眉毛を八の字にして、目尻と目頭に大胆な皺を発生させた。ジョッキから口を離すと、中年親父みたいに息を吐き出して、Ahとしわがれた声を出した。何だこれっ、やっぱりビール美味しくないなぁと彼はコソコソしたあと、また咳払いをして語り始めた。煩いやつだ。


「先程僕は死の話をしたけれど、僕は生だって怖いのだ。もしかしたら死よりも怖い可能性だってある。釜茹で地獄、針山地獄の何百倍も怖い可能性だってあるんだよ。ただ、あくまでも可能性の問題だけどね。それでも僕は死よりは生を選ぶことにしたんだ」



「それは何故かって?」



「簡単だよ。死はどうなるか完全にも不完全にも分からない。完全なる未知の領域なんだよ。しかし生きていればどうだ?確かに死と同じでどうなるか分からないのが現実だ。けれどある程度は想像はつくだろう?不幸になったとしても、今以上に事態が最悪になったとしても、何とかなる可能性は充分にあるんだよ。それにこの世に存在する不幸は、ある程度はどんなものかは想像がつく。けれど死は想像がつかないからね。もちろん想像がつくのは幸福についても同じことだよ」


…………。


思うところがある。


「貴方は変に楽観的ですね…………。何とかならなかった子は、想像力のなかった人は…………」


はじめて口を開く。



「僕はあくまで持論を語っているだけで超能力者じゃないから分からないよ。でも僕らはまだ何とかなっているし、人並みには、否、人並み以上の想像力を持っている。だからこそこんな楽観的なことが言えるのかもしれないね……」



「僕はね、生きろよなんて無責任なことは言わないけれど、そういう考え方をして生きてみてもいいんじゃないかって思うんだ」


「これは希望だよ……」


「希望……ですか」


希望、という言葉を復唱してみる。それは変な感覚がした。希望。それは世の中に満ち溢れているはずのものなのに、自分たちにはクソほどしか無い。ダイアモンドのような希少のつぶほどしか無い希望とやらに這ってでも縋るしか道は無いらしい。だとしたら希望なんてクソそのものだ。希望というのは晴れやかで煩悩すらも爽快に見えないといけない。ヒエラルキーの上の奴らの希望とはそういうものだ。それなのに自分らみたいな下層の奴らの希望は煩悩が煩悩に見えてしまって、光でさえも闇に隠れてしまうかもしれない状態なのだ。なぁ、希望といっても全然違うんだ。自分らはクソみてえな希望をクソみてえに求めなきゃならねえんだ。


分かってくれよ。


自分もビールを飲み干して、軽く話をしてから会計をする。彼と二人で簡素な居酒屋の暖簾を背をかがめてくぐり、暗い夜のコンクリートを履き古したシューズでゆっくりと踏む。あざっしたーと粗雑で少々乱暴な居酒屋店員の声を耳に残して夜空を見上げる。灰色に黒を少し混ぜたような不安な色した雲が宇宙を覆っていた。向こう側には月が見える。ぼやけた光が、微かに二人を照らす。